人を眺めて見る時
人は自分の目に見える事で判断をして行きますし
耳で聞いた会話での言葉で判断をして行きます
ところが
私はその部分は2割くらいにしか比重を置いておらず
そのお相手の内側を見ようと意識を集中するようになって行きました
上手く言えませんが
人の表に出さない部分が8割だと思う様になっていったのです
この事で私の中の黄金の比率が生み出されました
2対8の社会への目は
私からあらゆる事への恐れを消してくれました
肉体を8割として生きて行く事を2割に変化させ
魂に問いかける2割を8割にしていった気がしてます
これは特殊な感覚ではなく
誰にでも出来る事だと確信しておりますが
こんな風に意識を変える方が2割くらいだとも思っております
そうすると
いかに人間が8割を想念に頼り
肉体の脳作用に踊らされているのかを知って行きました
それはとても勿体無い事だと思う様になりました
魂というものを
どうすれば周りに理解してもらえるか
を最近思いついた説明があります
それはこんな風でした
もし、あなたが歩いていて
後ろから車に跳ね飛ばされて
即死したとします
その肉体をあなたは離れたところから眺めます
あれ?
あそこに横たわっているのは私?
え?でも私はここに居るわ
どういう事?
何があったの?
あれは私?
いや、私はここに居るわよ
まぁ、良いわ
私はここに居るし
となる訳です
その私というのが魂なのです
そんな風に、不意に思いも寄らず
命を落とした時
死が訪れた事を理解するはずもないのです
痛みもなく苦しさもない場面だからです
そして魂は進みます
行きたい方向に進みます
そう、自分の遺体を置き去りにしたまま
なのです
ですから遺体は運ばれて葬儀され火葬されても
その遺体から離れない訳ではないので
自分が死んだと気づかなければ
葬儀も火葬も見届けてないので
生きてると同様に動き続けます
これが魂という自分であり
今の意識の在りどころなのです
それを知った時から
人間としての力とは
魂の力の事だと理解して行く自分が居ました
それは私が多くの看取らせて頂く方々の
死までの経過の関わりの中で
色濃くなってゆきました
魂
これに着目して生きる事が
どんなに重要なのかを
若い子達に話さなくてはと思うまでに
そう時間は必要なかったのです
宗教的なものは全くなく
完全なる人間ならば持っている魂世界のみの関わり方に意識を置く事で
私は随分と楽になりました
それは魂力を鍛えて行こうと思う事で
どうすれば良いのかを理解していったからです